鈴木聡美(すずきさとみ)リオ五輪競泳日本代表

鈴木聡美 1991年1月29日生まれ 福岡県遠賀郡遠賀町出身 168cm 62Kg O型

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■リオ五輪 派遣標準突破種目 100m平泳ぎ

■遠賀中学 九州産業大学付属九州高校 山梨学院大学 ミキハウス

■担当コーチ 神田忠彦

■2歳年上の姉の影響を受け4歳の頃、水泳を始める。姉がやっていることは自分もやりたいと すごく駄々をこねた。
本格的に競泳に取り組んだのは8歳のとき。やはり ここでも姉が選手コースに行くというのでつられて行ったそうだ。

中学、高校時代は無名と言っていいほど全国大会とは縁のない選手で大学に入ってから一気に頭角を現したタイプ。

■ロンドン五輪では100m平泳ぎで銅メダル、200m平泳ぎは日本タイ記録で銀メダル。日本競泳女子史上初のオリンピック個人種目で複数メダル獲得。さらには女子400mメドレーリレーで日本記録を樹立し銅メダル。同一大会で3つのメダル獲得は日本競泳女子初。

■懸垂120回が日課

■ニックネームは小学校の時から「ボンバー」。小学校の休み時間にバレーボールで遊んでいたときに たまたま打ったボールが強烈で周りの友だちが『ボンバーショットだ!」と言い出したのがきっかけ。

■ ~苦しみ続けた3シーズン~

個人種目の代表19名」のうち、もっとも”サプライズ選出”だったのは鈴木聡美ではないだろうか。もちろん、長谷川純矢や今井月の代表入りも意外だったが、なかば立ち直るのは無理とあきらめていた この実力者の一発大逆転には、皆が驚いた。

ロンドン五輪で100m平泳ぎ銅、200m平泳ぎ銀、そしてメドレーリレーで銅メダルと、3つのメダルを獲得し、水泳界のシンデレラガールになった。

しかし幸せな気分に浸ったのはほんのわずかな時間。そこから3シーズンは苦しい日々が続いた。

2013年の世界選手権は個人種目で1種目も決勝に残れず、2014年パンパシフィック選手権で表彰台を逃し、アジア大会でも優勝は50m 1種目のみにとどまった。

ちょうどこの頃、渡部香生子が大きく飛躍。平泳ぎの第一人者の座はあっというまに渡部のものになっていった。それでもまだ苦難は続いた。

2015年には日本選手権で100m9位、200mは17位に沈み世界選手権代表を逃す。そんな鈴木に追い打ちをかける様に、その夏、渡部が世界選手権の200m平泳ぎを制し世界一となった。

「ロンドン五輪以降、悔しいシーズンが続いていたが、心の底から”私が変わらなくちゃだめだ”と思ったのは2015年の代表落ちのときだった。日本選手権のレースを終えたその日に”私、変わりたいです”と神田忠彦コーチに伝えに行った」

そこから1年。身体を絞り、必死にトレーニングに励んだ結果が100m平泳ぎの決勝で爆発した。

■ ~日本選手権では値千金の会心レース~

レースは見事の一言。やると決めたらわき目もふらず突き進む、鈴木の一番の持ち味を体現するような前半の入りは、3年間のうっぷんを晴らすかのように鮮やかだった。

「前半は50mの自己ベスト(=日本新)を出すつもりで突っ込んだ。後半も十分、粘ることが出来た」と、渡部に次いで2位に入り、2月に1分6秒58を出していた金藤理恵の追い上げをかわし代表権を手に入れた。

「神田コーチから、1分5秒台を狙うつもりで突っ込んでいけ、と言われてさすがにびっくりしたが、それくらいの気持ちで挑まなければ結果は出ないんだと心が決まった。」

「正直に言うと、調子が上がってきたのは2月に入ってから。それまで不安で落ち込むこともあったが、自分とコーチ、スタッフを信じてやってきた。」

「技術的にもロンドン五輪のときのキックの打ち方に戻してから泳ぎが上向いてきて、気持ちの面でもいけるぞと思えるようになった。今日は自信をもってレースに臨めた。」

と聡美スマイルも復活した。後半が強い選手が追い上げてくることに関しては、不安がなかったわけではないという。

それでも「絶対に周りは見ない、まっすぐ前だけを見て泳ぐと決めていた。不思議なくらい冷静で集中して泳ぐ事が出来た。」と自分の泳ぎに徹していた。

冷静に、集中してレースに臨めた要因は自信である。その自信を取り戻させてくれたのは、日々の地道な練習だ。リオ五輪に向かって一心不乱に突き進むだけである。

■外部リンク

鈴木聡美-Twitter

鈴木聡美-Facebook

鈴木聡美-Wikipedia





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